エベレスト大量遭難



エベレスト大量遭難(1996年5月10日発生)
 [1996年5月に起きたエベレスト登山史上最悪の遭難事故で8名の登山家が死亡した。]


 エベレスト登山は、1893年ごろから計画が立てられるようになり、1953年には世界で始めて登頂が行われた。このころは一部の冒険家や国家的プロジェクトによる冒険であったが、バリエーションルートなどの困難な攻略が一巡すると経験を積んだ登山家の攻略対象ではなくなり商業化が進むことになった。特に1985年に富豪ディック・バスがガイドによる全面サポートを受けた登頂に成功し、その過程を記した「セブン・サミット」を出版すると富豪や高所得者による七大陸最高峰の人気が沸騰。1990年代半ばには公募隊による登山が主流となり、アマチュア登山家であっても必要なコストを負担すれば容易にエベレスト登山に参加できるようになった。あらかじめシェルパやガイドによるルート工作や荷揚げが行われるため、本来なら必要であった登攀技術や経験を持たないまま入山する登山者が現れるとともに、ルートが狭い場所においては登山家が渋滞し、長時間待つようなことも増えた。

 1996年、ニュージーランドのアドベンチャー・コンサルタンツ社は、1人65000ドルでエベレスト営業公募隊を募集した。探検家のロブ・ホールが引率して、世界中のアマチュア登山家と共に5月10日に登頂を果たすというツアーで、いわゆる商業登山隊(ガイド3名・顧客9名)であった。他にもスコット・フィッシャーが引率する公募隊も行動を共にすることになった。日本人実業家の難波康子も参加した。参加者の中には、本来登山には必要の無い大量の資材を持ち込んだり、不適切な性交渉(不倫行為)を行う参加者がおり、ガイドやシェルパの負担は小さくなかった(登山中での不適切な情事は、神の怒りを買うとシェルパには不評であり、ガイドはその騒動の仲裁に借り出されることとなった)。

 スコット・フィッシャーの隊には、サブガイドとしてロシア人のアナトリ・ブクレーエフが初参加した。ブクレーエフはガイドとして十分な仕事をせず(ブクレーエフは「山は自己責任」「大半をガイドの助けによらなければ登頂できないような人間は参加するべきではない」という考えを強固に持っており、ルート工作などは行ったものの、顧客の世話はガイドの仕事ではないとして体調不良者の介助や下山の付き添いには参加しなかった)、隊長のスコット・フィッシャー自ら体調不良者をベースキャンプに送り返す等の労働に従事することになり、登頂前に既にスコット・フィッシャーは疲労困憊となっていた。また、顧客の一人が数度にわたり無酸素登頂を要請したが、これを撥ねつけたため険悪な空気が醸成されていた。技術、体力共に稚拙なメンバーの牽引に人手を割かれたことで予定をしていた山頂までのルート工作が完成しておらず、山頂に向かった人間は予定外の待機や作業によって酸素、体力とも大幅に消耗していた。また、渋滞を避ける為に登頂日を分ける事前の取り決めに非協力的な態度を取った隊や、一旦合意しておきながら翻意する隊もおり混乱が始まっていた。

 難波の登山技術と英会話能力には幾分か問題があったようだが、5月10日に田部井淳子と同じサウス・コルルートからアタックし登頂に成功した。これによって難波は日本人女性で2人目のエベレスト登頂者、及び七大陸最高峰の登頂者となった。しかし登頂を果たした時間は、引き返す約束の14時を1時間過ぎた15時であった(ロブ・ホールと共に16時30分に登頂したメンバーもいた)。頂上近くはルートが限られ、他の台湾の公募隊なども加わり、絶壁を越えるような難所では渋滞が発生し時間を浪費した。隊長のロブ・ホールは自己責任を強調し、14時というリミットには寛容であった。一方、スコット・フィッシャーは頂上が前に見えていても14時になったら引き返すように参加者に強く指導していた。

 5月10日、ロブ・ホールの隊では体の変調のため出発後すぐに引き返したフランク・フィッシュベック(出版業者。エベレストに三回敗退の経験)、約束の時間で登頂を諦めて引き返したスチュアート・ハッチスン(心臓専門医。K2、ブロードピークなど8000m峰の経験あり)、ジョン・タースケ(麻酔科医。8000m峰の経験なし)、ルー・カシシケ(弁護士。七大陸最高峰のうち六峰に登頂)の4人は遭難を免れた。ベック・ウェザーズ(病理学医。七大陸最高峰のいくつかに登頂していたが、8000m峰の経験は無し)は「バルコニー」と呼ばれる場所まで登ったところで視力障害が悪化し、早々に登頂を断念した。しかしロブ・ホール隊長にそこで待つように言われていた為に、折り返して戻ってくるホールを待ち続けて(結局ホールは遥か上の山頂付近で遭難して戻ってこなかった)下山を開始する時間が遅くなってしまった。スコット・フィッシャー隊の隊長であるフィッシャー自身がタイムリミットを守らず、大幅に超過した3時40分ごろ登頂し、また長時間山頂に留まり時間を費やした。その後下山中に体調を崩し、標高8400mのバルコニーを下った地点で動けなくなった。また、台湾隊の高銘和も二人のシェルパとともにフィッシャーとほぼ同時刻に登頂した。

 ロブ・ホールは大きく遅れた顧客のダグ・ハンセン(郵便局員。前年にも頂上手前で敗退)を待ち頂上に1時間以上留まった上、ハンセンが体調を崩したためガイドのアンディ・ハリスと共にハンセンを助けて下山していたが、ハンセンとハリスは結局遭難してしまい、また彼自身も途中で体調を崩し動けなくなった。彼は第4キャンプに無線連絡し、そこを経由して国際電話にて妻(妊娠中)に最期の別れを伝えるとともに、生まれてくる娘の名前の候補を告げた。夕方まで無線は通じていたがその後無線は切れてしまった。

 難波らのグループは下山中に夜になり、また激しいブリザードに巻き込まれた。そのため下山ルートを見失い、標高7800mの第4キャンプから200m手前のサウス・コルでグループの8名は立ち往生してしまった。難波はフラフラの状態になっており、空になった酸素ボンベを必死に吸うなど判断力も低下していた。最期には他隊(フィッシャー隊)のガイドであるニール・ベイドルマンに引きずられるようになった。まだ動ける3人が第4キャンプまで戻り救援を呼んだが、助けに行ったのは、フィッシャー隊ガイドのアナトリ・ブクレーエフだけであった。早めに引き返したため余力を残していたホール隊顧客のスチュアート・ハッチスンは何度か救出の為にテントを出たものの、強風の為にすぐにテントへ引き返さざるを得ず、両隊のシェルパや同じキャンプに居たブラジル隊にいたっては救援に行かなかった。アウトドア誌「アウトサイド」からの派遣隊などもいたが、隊の疲弊により救助することはできなかった。ブクレーエフは残された5人の元にたどり着いたが、比較的状態の良い自隊の3名の顧客サンディ・ピットマン(ファッションジャーナリスト。七大陸最高峰のうち六峰に登頂)、シャーロット・フォックス(スキーパトロール。コロラド州の全高峰踏破、ガッシャーブルムII峰、チョ・オユー遠征の経験あり)、ティム・マッドセン(スキーパトロール。コロラド、カナディアンロッキーの登山経験は豊富なものの8000m峰の経験は無し)を救助するのが精一杯であった。ホール隊の難波とベック・ウェザーズはその場にとり残されることとなった。

 5月11日朝方、台湾の高銘和登山チームの隊員が探索に出発し、高銘和とロープで繋がれたスコット・フィッシャーを発見した。台湾隊は高銘和を救助して去った。フィッシャーまだ生きていたがその後その地点で力尽きていたと推測される。夕方になりフィッシャー隊のガイドのブクレーエフが1人で救助に向かったがスコットは既に凍死していた。スコットと行動を共にしていたはずの他の参加者は行方不明のままであった。前日登頂を断念して引き返したホール隊のスチュアート・ハッチスンがシェルパと共に、キャンプ地から200mの地点に置き去りにされた難波とベック・ウェザーズの元に赴いところ、2人はまだ呼吸はしていたが全く無反応だった。ハッチスンは到底助からないと判断し救助を断念、そのまま第4キャンプに戻った。しかしベック・ウェザーズは数時間後に奇跡的に意識を取り戻した。片腕を挙げた状態で雪の中に倒れていたので腕はそのまま固まってしまっていた。顔や指に酷い凍傷を負っていたものの転倒を繰り返しながら自力で第4キャンプまで戻った。ロブ・ホールと行動を共にしていたダグ・ハンセンも凍死し、死者は8名となった。

 5月12日、奇跡的に自力で第4キャンプに戻ってきたベック・ウェザーズであったが、その後低体温症のためにテントの中で何度も意識を失った。その様子を見たメンバーはやはり回復の見込みが無いと判断し、第4キャンプに置き去りにされることになった。しかし夜が明けると、彼は起き上がって下山の準備をし、その後、救助隊の力を借りて下山を始めた。ウェザーズは重度の凍傷と低体温症でありながら自力でキャンプに戻ったものの、依然危機的な状態であることには変わりなかった。他のメンバーもウェザーズは到底助からないと判断してキャンプに置き去りにして出発することに決めていた。翌朝念のためにウェザーズのテントを覗き込んだところ、彼は起き上がって自力で下山の準備をしていた。ウェザーズは仲間の助けを得ながら下山を開始したがベースキャンプまでの行程は困難を極めてた。ウェザーズが標高6000mまで下山したところで、遭難を知った妻が米大統領に陳情するなど活動をしたことが実を結びヘリコプターで救助されることとなり生還を果たした。彼は結局両手の指の殆どと鼻を凍傷で失った。

 難波の遺体は翌年シェルパらによって回収され、ベースキャンプで荼毘に付された。アナトリ・ブクレーエフは3名を救助したが、ガイドであるにも関わらず、先に登頂して参加者を置いてキャンプに帰ってしまっており、この点を非難する声もある。本人は置き去りにして助けることが出来なかった難波の件を悔いており、翌年現場より難波の遺品を回収し家族に手渡した。ブクレーエフはこの遭難事件を書物にまとめ出版するが、1997年12月にアンナプルナで遭難死してしまった。アメリカのアウトドア誌「アウトサイド」からの派遣によって参加したジャーナリスト、ジョン・クラカワーは先に登頂に成功し第4キャンプに戻って居たにも関わらず、救助には参加せず非難を浴びた。登頂のために力を使い果たしていたうえ、アンディ・ハリスのバルブ操作ミスによってボンベが空になっていた時間が長く、本人も遭難寸前の状態でキャンプに帰還しており救援活動に参加できる状況になかったと後ほど著書で反論している。

 これとは別にチベットから登頂する北稜ルートでも同時期にインド・チベット国境警察隊(ITBP)の遭難が発生、3人が頂上付近で死亡している。その際にITBP隊の隊長は、同時期に登峰した福岡チョモランマ峰登山隊(日本人2人、シェルパ3人)が遭難者を視認したにもかかわらず救助せず登頂を優先させたとして非難した。福岡隊はこの批判に抗議し、ITBP隊は当初の説明をとりさげたが、後に出版された本や新聞記事において福岡隊の「見殺し」が事実として書かれる例がある。

 この大量遭難の2週間後の5月24日には南アフリカ隊の1名が同じように大幅に予定時間を過ぎた午後5時に登頂した後下山不能となり死亡。このシーズン12人目の死者となった。スコット・フィッシャー隊のシェルパ頭、ロブサン・ザンブーは最後までフィッシャーに随伴しながらも生還を果たしたが、同年秋に日本人登山家、小西浩文のエベレスト登山に随伴した際に雪崩の直撃を受けて死亡してしまった。

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